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2010年10月01日

ワープロの普及で漢字を忘れた(と言っている人に限って外国語はできない)

 20年ぐらい前にボチボチとワープロが普及し始めた頃に、「ワープロばかり使っていると漢字を忘れる」なんてことが言われ始めた。
 そして、携帯電話やパソコンの普及により、ますます「漢字を忘れる」と言われるようになっている。
 実際には、「漢字を忘れる」のではなく、「漢字の書き方を忘れる」ということである。

 実は、このワタクシ、まだワープロなんてものが普及する遥か昔の中学生くらいのときから、漢字の書き方を覚えるということに違和感を持っていた。
 というのは、少なくともあの頃の幼稚な考えとしてであるが、漢字が書けなくても、平仮名や片仮名やで代用できる素晴らしい言語を持っている我々にとって、特に問題はないと思ったからである。

 もっとも、まったく漢字が書けずに片仮名だけで書くと、文章が電報みたいになってしまうので、読みにくくて仕方がない。
 しかし、曲がりなりにも小学校を出ていれば、画数の少ない漢字くらいは書けるだろうから、さすがに電報ほど読みにくい文章にはならないであろう。


 言語というものは、そもそもが反復練習でしかマスターできない、スポーツのようなものである。
 我々は、生まれてから5〜6年掛けて、ようやくどうにかこうにか、タドタドしい日本語を話すことができるようになった。
 大人は、「子供のときは簡単に言葉を覚えるが、大人になると難しい」なんて言うものだが、子供は5〜6年も努力して言葉を覚えているのである。
 たまたま、その頃の子供の知能はまだ発達していないので、努力というものの何たるか分からず、自然に覚えたような気がしているだけである。
 また、ようやく5〜6年掛けてタドタドしい日本語を覚えた後も、今日に至るまで、毎日毎日飽きずに反復練習を繰り返し続けているから、いまだに聞き取り、話せるのである。
 その証拠に、海外に渡っていった人で、日本語を話す環境がなくなると、母国語であってもたどたどしくなってしまうものだ。

 漢字が書けない理由は、せっかく覚えたにもかかわらず、反復練習を怠っているだけのことであり、パソコンが普及したからではない。
 もっとも、パソコンが普及したことで、筆(ペンや鉛筆も含む)で書く頻度が下がったということは否めない。
 いくらパソコンが普及しても、筆で文字を書くことを続けていれば、少しは忘れなくて済んでいるだろう。
 あくまでも、パソコンの普及を自分の努力不足の言い訳にしているだけである。

 このワタクシの知人の70代のある人は、いまだにパソコンを使ったこともなければ、携帯電話も持っていない。
 仕事柄、いまだに毎日のように手紙を書いている。
 しかし、彼はよく口癖のように、「漢字を思い出せない」と言う。
 多分、ほとんど手紙を書くことなんてないこのワタクシの忘れ方よりはマシだとは思うが、いくら反復練習を続けていても、普段使わない漢字は忘れてしまう。

 そして、彼は、忘れたら辞書を引く。
 我々は、忘れたら、いや、忘れても、パソコンや携帯電話が勝手に変換してくれる。
 何も問題はない。


 英語という言語は、基本的に音と文字が一対一でヒモ付かない言語である。
 「Water」の「a」と「iPad」の「a」は違う発音であるというようなことが日常的な単語レベルにまで溢れ返っている。
 英語を母国語にする人たちは、ほとんど全てが例外というような単語の書き方を覚えないといけない。
 当然ながら、スペルミスなんてのは日常茶飯事である。
 彼らは、あやふやな時には辞書を引けと教育されている。
 覚えていなくても、それを確認する手段があるのであれば、わざわざ覚える必要はない。
 極めて合理的である。
 そして、今ではソフトが勝手に間違いを訂正してくれる。

 日本では、覚えていることが美徳とされるので、漢字の書き方を覚えていないことは恥ずべきことであるような教育が行われている。
 英語の単語を覚えるときに、スペルの一文字一文字まで覚えないといけない。本国ですらそんなことはしていないのに。

 
 漢字も英単語も、実は、書けないことよりも読めないことの方が問題である。
 読めないということは辞書も引けないということになるので、読めなければかなりの問題である。現代で言うと、読めなければ、変換候補から漢字を選択できない。
 あえて分かりやすいように極端に言うと、日本語の場合、平仮名と必要最小限の漢字が書ければ、日常生活は可能である。難しい漢字を覚えてもどっちみち人生の中では忘れるのだから。。。

 世の中の人が「(パソコンや携帯電話の普及で)漢字の書き方を忘れる」と事あるごとに言うのは、「本来忘れることは恥ずかしい」という文化が背景にあるからとしか思えない。
 昔と違って、辞書で調べなくても、機械が文字を書いてくれることに問題があるとはまったく思えない。

 今では、「電話」と言えば「携帯電話」を指し、「メール」と言えば「電子メール」を指している。「車」と言えば「馬車」や「牛車」だったのが「自動車」のことになった。
 「書く」という言葉が、「筆で紙に書く」という言葉ではなく、「キーボードを叩く」という意味になるのは時間の問題だろうし、「読む」という言葉を聞いたときに「紙をめくる」という動作を想像することもなくなり、「ディスプレーを見る」という動作を想起するようになっていくだろう。
 それが時代の進化である。
 「書く」はかつては「石で固いものを掘る」だったのだから。

 変換候補の漢字が選べなければさすがに問題だが、過去よりも遥かにたくさんの文字を読まなければいけなくなってしまったこの現代社会において、変換ミスを見掛けることはあるが、変換ミスのほとんどは同音異義語である。つまり、単に変換するときに違う単語を選んでしまっているだけの話である。
 変換前の候補を出す作業、つまり、日本語の音をタイプする段階で間違っている訳ではない。

 難しい漢字を覚えるために掛けた時間や、それらを覚えておくために使った脳のスペースを別の用途に使っていれば、このワタクシはもうちょっと賢かったかもしれない。
 現在、このワタクシは、比較的多くの言葉を話せる方だが、各言語のスペルを必死になって覚えたことはない。
 それは、辞書の引き方を知っているからでもあるが、所詮言語にとって「読み書き」は副次的なものでしかないからである。
 現在に至るまで地球上には、何百億人という人間が誕生したはずだが、母国語の「読み書き」だけができて、「会話」ができなかった人は一人もいないはずである。

 漢字(いや、文字)が書ける書けないというのは、あくまでも教養の問題であり、書けなければ教養がないと思われるだけの話である。
 教養がなくても、このワタクシは、この文章をたくさんの(多分筆では書けない)漢字を使って書くことができたぞ。


*こういう文書を書くと、必ず精神論で反論してくる人がいるので愉快である。

*漢字もそうだが、外国語の学習においても、「絶対に知っておかないといけない単語」と「出てきたときに理解できれば良い単語」を区別するべきである。
 現在の日本語教育においても、外国語教育においても、これがゴチャゴチャになっているから、全てを覚える方向に走ってしまうのである。
 外国語においては、「〜〜〜する時」という単語は、自分で言うときは「When〜〜〜」だけ覚えておけば良いのに、同じような意味の、自分では絶対に使わない「As」とか「While」とかまで覚えて墓穴を掘るのである。
 つまり、絶対に能動的に「日本語から外国語に」訳さないといけない単語と、出てきたときに「日本語の意味だけ知っていれば良い」単語を明確に区別しないといけない。
 漢字だってそうやって覚えているはずである。「薔薇」は読めれば良いだけで、「松」は書けないといけない。


(関連エントリー)
 「言語


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